德周山城
德周山城
忠淸北道堤川市月岳山の南側にあるこの山城は石で積んだ統一新羅時代の山城で、内城と外城に構成されている。
聞慶と忠州を繋ぐ道路を遮断する戦略的な要衝の地であるため、遮断性の機能も持ったこの城は、高麗高宗43年(1256)、モンゴル軍が忠州を攻略すると、急に雲、風、雹が降って、敵軍が、神が助ける土地と言いながら逃げたという。また朝鮮末期には、明聖王后が興宣大院君との権力争いで負けることを予想し、身を隠す場所を備えるために、ここに城門を築造したという。
周囲が32,670尺(9,800m)もあった城壁は壊れたが、朝鮮時代に積まれた南門(月岳守楼)、東門(ドクズ楼)、北門(北征門)の3つの城門が残っている。南門はドンチャンから聞慶に繋がる道路に虹模様に作った虹霓門になっており、左右を塞いだ城壁の内外の軸は、その長さが100間である。ドクジュ谷の入口にある東門は南門と似ており、セトマルの民家の中にある北門は内外に虹霓があり、虹霓の下敷きの石に太極の模様が彫刻されている。 德周山城は内外5重の城壁があるが、築造年代がそれぞれ違って、非常に重要な資料として評価されている。