淸風寒碧樓
淸風寒碧樓
この建物は高麗忠肅王4年(1317)、当時の清風県出身の僧侶である淸珙がになり、清風県が郡になると、これを記念するために。宿屋の東側に立てた建物である。元々の位置は清風面邑里にあったが、忠州ダムを建てながら、1983年清風面勿台里に移して立てた。
構造は前面4間、横面3間の2階の楼閣と、前面3間、横面1間の階段式翼廊の建物が続いている。柱の間は全て開放されており、四方に欄干が作られている。建物の中には宋時烈の扁額と河崙の奇聞がある。
樓の栱包は二翼工であり、翼廊は初翼工で、樓は附椽がある垂木を重ね合わせた軒であるが、翼廊は附椽がない軒である。樓の床は「井」模様の床を敷き、天井は椽背天障であるが、東側の合角の下の所を隠すため、「井」模様の天井を一部さらに設置した。朝鮮太宗6年(1406)に郡守鄭守弘が仁祖12년年(1634)に郡守權擎が重修し、高宗7年(1870)に府史李稷鉉が重修し、1972年8月19日の水害の時、崩壊したものを1976年4月に再び復元した。密陽の嶺南樓(宝物第147号)、南原に広寒樓(宝物第281号)と共に本館の隣に小さい付属館がついている朝鮮時代の楼閣の建物の代表的な例であり、3つの建物の中で最も簡潔で端麗である。