侍郞山
侍郞山
朴達と今鳳の哀切な恋の伝説
侍郞山は堤川市白雲面と鳳陽邑の境界になる。山行の入口である朴達ジェが有名であるのに対し、侍郞山を知っている人は稀である。半夜月作詞の「泣きながら越える朴達ジェ」の歌でさえ、侍郞山ではなく、「天登山朴達ジェ」となっているので、色々な理由で侍郞山は無名の悲しさを耐えるしかなかった。「侍郞山朴達ジェ」と歌詞に入って入れば、全国的に有名になったはずのこの山と、天登山(807m)の距離は大略20キロメートル。北側の山脈に繋がる九鶴山(971m)もその程度の距離であるため、侍郞山朴達ジェは、ちょうど真ん中の地点にある、山であり、峠である。
侍郞山の山行は交通が便利な朴達ジェから始まり、頂上に登った後、下山は白雲面慕亭里汪塘か、ウォンエリョンまたは鳳陽邑公田里蘇侍郞にする。峠の一番高い所へ車をとめる場合、面白さは減るかもしれないが、原点回帰山行コースを選ぶしかない。朴達ジェから侍郞山の頂上までは、標高差が238mに過ぎなくて、歩くのが早い人ならば、1時間で登ることができる。下山の道も同じく1時間あれば、十分であるため、余裕をもって休みながら行っても、3時間あれば、楽しい山行を終えることができる。
堤川から高速道路のように延びた38番国道に沿っていく途中に、海抜453mである朴達ジェに行く道が2箇所ある。「院朴里入口」または「朴達ジェ入口」から出てくると「朴達ジェの元の道」であることを知らせる一柱門が高く立って、旅人を歓迎している。峠道に入ると38番国道に沿って、車が早く走っているのが見える。朴達ジェを行き来していたこの道は、下にトンネルができて閑寂とした「元の道」になってしまった。新しい道が作られる前、歩いて越えて「元も道」もやはり「元の道」である。このことからかける所がない道が「元の道」になることがそれほど難しいことではなさそうだ。
曲りくねった峠道に沿って、頂に着くと雄大な下半身をあらわにした「作品」が並んでいる休憩所がある。球形所のご主人の作品だそうだが、その中には「朴達」と「今鳳」の哀切な物語を形状化したカップルも目立つ。しかし、大体はがっちりとした性器を誇示する木彫りで、猥褻と諧謔の間のぎりぎりにある作品たちである。
朴達と今鳳は朴達ジェ休憩所の端の方に大きな銅像として蘇り、愛をささやいている。彼らが出会ったのは 朝鮮中葉。慶尚道の学徳を備えた人だった朴達が壯元及第の夢を抱いて、漢陽に向かっていた途中、峠の下の平洞村で一晩泊まることになった。その村の娘だった今鳳の美しい姿に惚れた朴達は、科擧試験も忘れて何日も泊まっているうちに 今鳳と恋に落ちてしまった。
科擧に及第した後、結婚の約束をした朴達が漢陽に向かってしまうと、今鳳は毎日城隍神に朴達の壯元及第を祈った。しかし科擧が終わり、朴達から連絡がないと、傷心した今鳳は峠を登ったり下ったりしながら、朴達の名前を哀切に呼んだが、恨みを抱いたまま、死んでしまった。
漢陽に着いた朴達は科擧の準備は忘れて、今鳳に捧げる詩ばかり吟じて、結局試験に落ちてしまった。故郷に戻ることを伸ばしていた朴達は、今鳳の葬式が終わった3日後に帰って、今鳳の死を聞き、床を叩きながら泣いていた途中、ふっとゆらゆらと踊りながら峠を登る今鳳の幻想を見た。朴達は嬉しくなって、走って行き、今鳳を抱いた瞬間絶壁に落ちて死んでしまった。
元々朴達ジェは「イドゥンリョン」という名で呼ばれた。天登山と地登山の峠の頂という意味を持った峠だったか、朴達と今鳳の実らなかった恋が知られた以降から「朴達ジェ」という名で呼ばれるようになった。
「朴達ジェ」には堤川市で建てた案内図がある。ここには、キム・シリョ将軍が、契丹の10万大軍を撃ち破いた年が1217年(高宗4年)で、別抄軍がモンゴル軍を撃退した年が1258年(高宗45年)と記録されている。しかし堤川中央ライオンスクラブで立てた碑石には、それぞれ1216年と1268年に、違う内容が記録され、名残惜しい。
古く高句麗末の土地で「バックメ峠」という意味に由来したこの峠。800年の歳月を遡れば、この峠こそ数千年の民族の生活を守ってきた、強い民族魂を惜しみなく発揮する、輝かしい現場でもある。
朴達と今鳳の哀切な恋の伝説
朴達ジェ方面(朴達ジェ~頂上~汪塘)
登山所要時間:2時間5分
区間別所要時間:朴達ジェー(13分)-檀君碑石ー(30分)-送電塔1-(5分)-送電塔2(5分)-岩地帯ー(10分)-頂上ー(20分)-稜線の分かれ道ー(40分)-汪塘11km
「作品」の見送りの中、朴達ジェモテルの駐車場の隣の侍郞山に向かう登山路は栗の木と松の森の間にまっすぐ伸びていて、本当に面白い方ではない。しかし、秋場、この道には松の実と栗のいががあっちこっちに落ちているため、単純にそれを拾いながら歩いても1袋は拾うことができる。
最初の分かれ道から左に入ればすぐ泉のあるところに出る。広い森の中の空き地の木の下にパイプが縛り付けられているため、まるで、木から水が出ているように見える特異な泉である。遠くから引いてきた水であるためか、それほど冷たくはない。
ちょっと低めの峠道を歩けば、左の方に並んでいる碑石が3つ見える。真ん中の碑石には、「国祖檀君大皇祖聖靈」と刻まれている。檀君を祭るものに間違いないが、位置もそうだし、最近立てられたものであるため突飛な感じがする
その後の登山路は稜線が続いており、歩きにくい区間はない。朴達ジェから始まり、分かれ道が3ヶ所出てくるが、全て左に行けばいい。侍郞山の登山路に立っている高圧線の送電鉄塔はあまり嬉しくないが、明らかに里程標の役割をしている。登山路が全てこの鉄塔の下を過ぎるためである。
頂上を10分余り残して、岩の地帯が出てくるが、ここもやはり傾斜がそれほど急ではないため、あまり難しくない。全体的に考えれば、緩慢な稜線が続く道であり、いくつかの峰を過ぎて頂上に至る。頂上の直前の最後の峰は、ひょっとすれば侍郞山の頂上と錯覚しやすいが、ここには石塔がある。鞍部を過ぎて、侍郞山の頂上に登ると、堤川市が設置した頂上の標識石がある。朴達ジェからここまでは「6.5km」、出口であるウォンエリョン村までは「4.7km」であると鳥石に刻まれている。
侍郞山の頂上には鳳陽邑の方の眺望がよい。白雲面の方は木が多いため、よく見えない。侍郞山から南側の稜線を続いていけば、馬頭山(417.9m)に至る。馬頭山の下の公田3里の堤川川の周辺には、朱子と宋時烈、義兵将柳麟錫などを奉安した紫陽影堂と義兵記念館がある。
侍郞山という特異な名前に始めて接する人たちは、山犬と狼を意味する「豺狼」か、「朴達と今鳳の恋」、または「新郎」などを連想しやすい。しかし侍郞山は公田里蘇侍郞の村の名前に由来した。昔、侍郞の官位だった蘇さんという人が生まれたところが蘇侍郞村。従ってこの村の裏山が侍郞と伝わっている。蘇侍郞は元々、崔氏、申氏、李氏など、100余りの戸が集まって暮す村だったが、現在は40戸余りに減った。侍郞は新羅時代の官位で、次官級に該当し、六頭品と眞骨出身から任命された。高麗時代もやはり次官級の官位だったが、文宗の時、正四品として尙書六部に属し、1275年10月モンゴルの干渉で官制を改革する際に、摠郞に直し、その後、再び、侍郞、摠郞、議郞という名に何回も改称された。